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シアトル石垣プロジェクト 1

September 14, 2016 The North American Post Staff 0

「カイル、お前酔っ払ってるから運転しちゃダメ」  カイルは文句ありげに顔を上げると、「エェー…オォーー…だってブツブツブツ(文句を言っている)。じゃあ、トラック行ってくる」と言った。  「運転しちゃダメだよ」  「帰ってくるって」  そう言うと、彼は重そうなブーツをドカドカと鳴らしながらフラフラと家を出て自分のトラックの方に行ってしまった。  しばらくして帰ってくると、手に大きな鉄のランチボックスのようなものを持ってきた。それを家の裏庭のデッキのテーブルにドンと置いた。  不思議に思い、 「何これ、カイル?」と聞くと、 「強いやつ淹れるんだ」と、フラフラとバーナーだのカップだのを取り出し始めた。  見ているといい香りがしてきて、彼はささっと手際よくエスプレッソを何杯も淹れ始めた。明日も作業がある、夜中の12時過ぎである。僕の周りにいた石工たちも、「おお、ありがたい」とか言って集まってきてエスプレッソの小さなカップを持つと、美味しそうに一気飲みするのである。  カイルも二杯くらい飲むと幸せそうな表情になるのだった。  思わず、「あんたらやっぱどっかおかしいよ」と感心してしまった。  「じゃあ、がんばってください。僕は寝ます。おやすみ」――。僕は呆れたまま寝室に引っ込んだ。  夜中の3時頃にマットが目を覚ますと、カイルは庭の芝生の真ん中でタオルを巻いて寝ていたという。「しょーがねーなー、おら、カイル、部屋に入れ。ほら」といってカイルを室内に連れてくるのに成功したが、1時間もしないうちにまた外に寝に行ってしまったそうである。  野生人というより、野生動物に近い感じがした。(後で聞くと、カイルは他の野郎達のいびきがうるさかったから、と結構繊細なことを言うのであった) ◇ ◇ ◇  粟田建設の会長と社長に出会ってから4年。やっとのことで、シアトルで石垣を建設する段取りが整った。  社長達に出会ったのは、ベンチュラというロサンゼルスから一時間半くらい南にある海岸沿いの町だった。2010年春、そこで小さな石垣を建てようというワークショップがあり、僕はそれに参加していた。  ところがこのワークショップのオーガナイザーの爺様がとても頼りのない人で、日本勢を招くだけ招いて自分はさっさと傍観を決め込んだのだった。だから、通訳も、ガイドも、運転手も、オーガナイザーも誰もいなくても、そんなのどこ吹く風で、「ああ、それは大変だ」とまったく他人事かのように構えているのであった。だから、日本語が話せる僕がなんとなくそうしたこと全てをやることになってしまったのである。  しかし、僕にとってはかけがえのない経験になった。社長たちの日本語による説明を訳して、色々お話しているうちに、この人たちはすごい人たちだ、ということが分かった。粟田家二代前の粟田万喜三と先代(十四代目)の粟田純司はともに人間国宝である、只者ではない家系なのであった。  石垣の作業を手伝っているとき、「これはシアトルでやらないと」、と思いついて、シアトルに帰ってきた後もずっとそのことを考えていた。  さて、どこか石垣を建てさせてくれるような所はないだろうか? 資金はどうする? ワークショップの形は? 人数は? 問題はいろいろあった。  唯一問題でなかったのは、石だった。それは、単純に僕が石屋で働いているからであった。後は、とにかく当たってみないことにはどうにもならない。とりあえず、片っ端からあたってみることにした。  日系企業はよさそうに見えてなかなか難しかった。というのも、例えば一つの会社の敷地内に石垣を建ててしまったら、完成した後にそれが私物になってしまって、僕のやろうとしていることの精神と食い違ってしまうことになる。それと、もし、資金源が一つとか二つとか少なかったら、なんとなくそのお金を用意してくれた人、又は組織なり団体なりに依存する形になってしまうのでこれも又困る。  そんな訳で2010年の冬には、とうとう行き詰ってしまったのである。 […]

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オーバンに残る日系史

September 9, 2016 The North American Post Staff 0

当地日系移民の歴史を探る上で欠かせないのが、日系墓地の存在だ。シアトルでいえば、キャピトルヒルにあるレイクビュー墓地は、日系人区画は広範囲になり、毎年のメモリアルデーの戦没者慰霊祭が開かれている。またクイーンアンにあるマウント・プレザント墓地は、大北鉄道の路線事故で犠牲となった多くの日系移民工夫を慰霊している。  こうした日系墓地において特異なのが、オーバン市のパイオニア墓地だろう。1860年代の移住者による墓地を始まりとするが、グリーンリバーの洪水などで多くが丘の上の墓地へ移る中、20世紀以降は、徐々に移住者を増やしていた日系移民の墓地として利用されることになった。  資料によると、1900年段階で、オーバン地域には432人の日系移民が生活していたという。1912年建立の白河本願寺は1914年、オーバン市からパイオニア墓地の東端から25フィートの区画に日系墓地設置を認可され、また同所の管理を任された。オーバンに居を構え、今3世代目となる夏原ファミリーが長年にわたり、清掃を含めケアを続けたという。メモリアルデーには白河本願寺の主催による特別法要が毎年行われている。  墓地に入ると、寺田、夏原、田辺、山下、山田、米谷など、墓石に名前が刻まれている。数は120ほどあるという。現在当地日系社会で活躍、このオーバンの墓地を縁とする関係者も少なくない。  同所は8月、同市とキング郡から歴史史跡としての認定を受けた。初期の墓石はコンクリートで作られ、長年にわたる雨、あるいは洪水で浸食し、ほとんど文字が見えない。また破壊された形跡のあるものも少なくない。今後、同地に足跡を残す日系人、またオーバンの貴重な歴史資料として保存活動が進められる。  オーバンは白河本願寺の盆踊りが毎年開催されているが、近年は同地における日系史を振り返る関連イベントが続いている。別の歴史史跡、ニーリー・マンションの庭には、堀一家が利用した外付けの風呂場が再建された。同市ホワイトリバーバレー博物館では、日系人収容所関連の展示会が11月まで行われている。パイオニア墓地もまた100年以上続く歴史の象徴として加わることになる。  (佐々木 志峰)

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ジャパンフェア2016 会場大盛況、大成功の1年目 シアトルストームジャパンナイト 渡嘉敷選手を応援 レインFC、宇津木選手も参加

September 9, 2016 The North American Post Staff 0

女子バスケットボールのシアトル・ストームが8月31日、2年連続となるジャパンナイトを開催。ハーフタイムに和太鼓演奏、試合後に所属する渡嘉敷来夢選手との交流会が行われるなどファンを楽しませた。  ダラス・ウィングスとの試合は78―66で勝利。渡嘉敷選手は2得点だった。試合前には渡嘉敷選手の映像が流れ、観客から大きな歓声が起きた。和太鼓団のちきりと太鼓の学校によるハーフタイム演奏、試合後には約200人のファンが渡嘉敷選手と交流した。女子サッカーのシアトル・レインFCから宇津木瑠美選手もゲスト参加した。  渡嘉敷選手、宇津木選手への質問は次の通り。 ―日本とアメリカとのスポーツの違いは何ですか? 宇津木:「米国はやはりスポーツ大国ということもあり、スポーツに対しての雰囲気が日本とだいぶ違うのと、観客の数が段違いで多いように感じます」 渡嘉敷:「宇津木選手に付け足して、米国でプレーするときは、いつもフィジカルの違いを思い知らされます。米国で活躍するには、とにかくフィジカルの強化が必要」 ―東京五輪についてどう考えていますか? 宇津木:「日本開催ということで、とても盛り上がると思う。個人的に私も4歳若ければ」 渡嘉敷:「リオ五輪前にメダルを取ってくると約束したが今大会では取れなかったので、東京五輪では絶対に取ってみせますので応援よろしくお願いします」  この他にもいくつか質問に回答、普段聞くことができないプレー以外の話が聞け、会場は終始和やかな雰囲気だった。  ストームの地元試合は、11日、18日の午後4時からで、プレーオフも視野に入れる。レインFCは11日午後7時がシーズン地元最終戦となる。    (松井 貴海)

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私の東京案内 1

 まず京都、それから奈良や鎌倉というのが日本観光の定番ではないだろうか。「古都」を選んでいるわけだが、原爆投下のあった広島をこれに加える向きも、特にアメリカ人のなかには少なくない。銀座や渋谷など、東京の大繁華街はパリやニューヨークに比べどれほど違うのか。「日本へ行くまでもない」、そういう見方からすれば古都の選択は妥当と思われる。最近は買い物を主目的として日本へやってくるアジアからの客が多く、なかにはいわゆるリピーター(二度、三度の訪問)もいるので行く先の選択肢も増えている。東京を目指す人も増えているようだ。  東京を「古都」と思う人はいないだろうが、江戸時代以降400年近い歴史を持つことを考えると立派な古都である。太田道灌がさびれた漁村だった地に砦のようなものを造ったのは15世紀で、軍事面での地の利をそこに見て城(江戸城もしくは千代田城)を築いた家康だが、その後の徳川将軍たちによる政治が250年近く続き、その間、江戸は経済と文化の中心地(大阪と京都と分け合ったにせよ)であり続けた。明治の時代になると東京と名を変えて新しい出発したが、その後も大正、昭和、そして今の平成の時代に到るまで激動の歴史を首都として見守ることになる。だからと言っては語弊があるが、この大都市は探訪すればするほど興味のつきない場所なのである。  「東京」になってからの変わり方のほうがずっと激しいのだが、それ以前の江戸時代には「下町」に活気があった。江戸の大名たちは競って隅田川沿いに邸宅を建て、その東に住んだ町民たちの町には活気があり面白かったのだ。時代とともに人びとの生活様式もとりまく環境も変化するし、それを反映する町のかたちも違ってくるのはあたりまえだが、東京はおおざっぱに言って西に向かって拡張していった。東京の物語を語ることは、経済と文化や生活圏が隅田川沿いとその東の地域(下町)から城の西に広がるいわゆる「山の手」地区へ変わっていった経過、それぞれの興隆のありさまを語ることであろう。  近代都市となった東京の表面は(中味もそうだが)、明治元年以来、少なくとも三度の激変を経験してきた。まず、1923年に起きた関東大震災。地上のほとんどが破壊されたのだが、地震そのものよりも40時間燃え続けた火事のためである。浅草は当時東京一の繁華街だったのだが、その中心部まで火はとどかなかった。でもすぐ東隣の吉原では6000もの遊女たちが命を失った。  大震災のあと、東京はすぐさま立ち直ったが、1923年前の街並とはずいぶんさま変わりがした。それまでの建物の茶色と黒の美しい調和は崩れ、ヴェニスに匹敵するといわれた水の町東京は川と運河をだいぶ失った。地震で破壊された資材がそれらを埋め、道路となったりした。そして人びとはこれを期に西へと移動していく。あたらしい私鉄の線が郊外へ向かって走りはじめ、電車の始発点の駅にはデパートができて人が集まった。  その後東京は再び焼け野原となるが、今度は太平洋戦争の終末期に米軍の落とした焼夷弾による火事。町を建て直すにあたって再び運河と川が、そして今度は東京湾の一部も、埋め立てられた。例えば銀座の数奇屋橋が姿を消したのは大戦後すぐの朝鮮戦争景気で湧く1950年頃だったが、そこに高架の高速道路ができた。その橋はもともと江戸城の外堀の一部だったのだが(地下深くに残った大きな石が発掘されている)、今はバス停の名としてしか残っていない。  そして1964年開催の東京オリンピック。東京の顔はふたたび大く変わる。競技に使われた場所のひとつが代々木競技場だが、このときに米軍から返還された。大戦前は練兵場だったのを米軍が接収、家族の住居地にした。日本人はオフリミットの場所だったのだ。オリンピックのために外国から来る選手や観客の足を念頭に新しい道路ができた。古い道路は道幅が拡張され、両側にたつ建物は平屋からたて長のビルへと大々的に変わった。今の東京には古いものは地上にはほとんど残っていない、と言えるのかもしれない。  オリンピック後も東京の顔は変わっていった。1980年代のバブル経済期の土地価格の高騰にともなって地上げ屋が暗闘し、古いビルや家がずいぶん壊されたりした。こうして古いものはあっさり捨てられ(その方が経済価値があるから)新しい高層ビルが建った。たしかに外観はすばらしくなったが、消えてなくなったものはずいぶん多い。それらは古い写真と人の記憶のなかに収まることになったわけだが、東京についてのエッセイや探訪記が今も書かれ出版され続けている。それは人びとが東京に感ずる一種のノスタルジー、消え去ったものへのオマージュなのかもしれない。 (田中 幸子) 編集部より:筆者への連絡先はytanaka03@gmail.comになります。

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近隣活性化プロジェクト 市で助成、説明会実施

 シアトル市の地域課は、地域活性化を図るネイバーフッドマッチングファンド・プログラムを実施する。今月に各所でプログラムを紹介するワーショップを開催する。  同プログラムはコミュニティーメンバーによるリーダーシップにより計画された事業を支援。地域文化祭や施設改善、公共芸術や若者の活動支援など、コミュニティー構築のために活動する地域グループに最大で2万5千㌦を助成する。  コミュニティーの改善や事業を通して、より連帯のある健全な地域づくりに貢献していくことを目標にしている。  ワークショップは市でも注目と人気を集め、小規模かつシンプルな事業に興味を持つ地域グループに対して開催される。ワークショップではネイバーフッドマッチングファンドの概略や助成事業の特色、応募の過程や必要条項などを説明する予定。  日程は本日、マウントレイクコミュニティーセンター、9日にレーニアバレーのセントロ・デル・ラ・ラザ、18日にフィニーリッジのフィニーネイバーフッドセンターで開かれる。それぞれ午後6時から8時まで。  プログラム応募の締め切りは9月12日月曜の午後5時までとなっている。詳しくはhttp://www.seattle.gov/neighborhoods/programs-and-services/neighborhood-matching-fund/small-and-simple-projects-fund-まで。 (大間 千奈美)

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姉妹都市の友情 時を超えて届ける感謝 神戸からパレード参加

 シアトル・ダウンタウンで7月30日、毎年恒例のシーフェア・トーチパレードが開催され、来年で姉妹都市60周年を迎える神戸市からもゲストが参加した。1995年当時に阪神淡路大震災被災地支援事業「キッズキャンププログラム」の参加者が、家族とともにパレードに参加する様子も見られた。

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沖縄県人会 鼓衆、当地で活躍 「エイサー」の掛け声とともに

 シアトルも毎年の恒例行事、夏祭りの開催が集中する季節を迎えた。屋台や盆踊りなど、さまざまな訪問客が集まる各地域のイベントでダイナミックな演奏を見せる太鼓集団がある。独特の穏やかさと迫力の緩急を持つ琉球芸能を披露する沖縄県人会太鼓クラブは結成9年目。今年7月からは沖縄の浦添市を拠点に置き、県外や海外でも活躍する親団体「鼓衆 若太陽(ちじんしゅう わかてぃーだ)」の名前をとって「沖縄県人会 鼓衆」となった。

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JETプログラム壮行会 新たに35人、国際交流に力

 JETプログラム(外国青年招致事業)の参加者が渡航を翌日に控えた22日、大村昌弘総領事公邸で行われた壮行会に出席した。シアトルからは35人が参加する。  今年で30回目を迎える同プログラムの参加者数は、世界65カ国から6万2千人を超える。外国語指導助手(ALT)、国際交流員(CIR)、スポーツ国際交流員として日本各地に赴任、文化交流や外国語教育の普及などを通し、地域レベルの国際化推進の役割を担う。  日系の参加者としては、シアトル大学卒のマヤ・ラールさんが新潟県に赴任する。ワ州日本文化会館で日本文化に親しんできた経験に加え、去年上智大学で交換留学をしていたこともあり、日本で働くことにさほど緊張していない様子だった。「子どもに教えるのが楽しみ」と意気込みを話す。  壮行会に出席した兵庫県ワシントン州事務所の河知秀晃所長によると、兵庫県では公立高校すべてにネイティブの英語教員がいるという。兵庫からも日本語教師が派遣され、草の根レベルでの国際交流が行われている。  JETプログラムの任用期間は1年間。最長で5年まで延長することができる。 (大間 千奈美

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命、人種、法、正義 高まる市民の抗議の声

 ルイジアナ州バトンルージュで5日、黒人男性アルトン・スターリング氏が白人警察官2人に取り押さえられて射殺された。その翌日、ミネソタ州セントポールでも同様に警察官が黒人男性フィランド・カスティロ氏を射殺する事件が起きた。事件当時、殺害された両氏ともに犯罪行為はなく、その様子を記録した映像は、ソーシャルメディアなどで拡散。全米で大規模な黒人差別反対運動が行われている。

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