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細田あずみさん講演 ろう染伝統文化紹介

October 17, 2016 The North American Post Staff 0

シアトル・アジア美術館が行う講演シリーズで15日、ろう染作家の細田あずみさんが自身の作品とともに日本の染めの伝統文化を紹介した。   当日は染めの歴史や工程を紹介。ボランティアが舞台に立ち、細田さんの作品を披露した。タコや建物など斬新なイメージを取り入れた作品に出席者は大いに興味を引かれたようだった。細田さんは、「伝統的な染めの世界では、女性作家はまだまだ少ない」と話す。長く閉塞感のあった伝統文化の世界で、着物の海外進出と合わせ、新たな可能性を模索する。  細田さんの作品は地元ギャラリーのKOBOでも展示された。  シアトル・アジア美術館は来年春から約18カ月の増設、改築工事のため閉鎖される。現在の建物は1931年にシアトル美術館として開館。同館が1991年にダウンタウンに移転後、94年にアジア美術館として開館し、現在に至る。  (記事・写真  = 佐々木 志峰)

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シアトル石垣プロジェクト 3

September 14, 2016 The North American Post Staff 0

 僕は結構早くから、自分の役割は「情熱馬鹿(Passionate fool)」であることに気がついて、それに専念した。これはそうしようと思ってやったのではないのだが、どうも僕が情熱的に人に石垣プロジェクトの事を話すと、「ああ、頼りなくて見てられないから、いいよ。じゃあ、これは私がやっといてあげるよ」とか、「能力が情熱についていっていないね明らかに。しょうがない、このことは任せておいて」と言う風に人が手伝ってくれるのであった。能力がないから得した珍しい例ではなかろうか。  窪田ガーデン理事長のジョイ・オカザキも資金集め等で「情熱馬鹿」が必要なときは連絡してきて、「ほれ、お前の得意なあれやれ」と僕に話をさせてくれるのであった。  おかげで、いろいろな人たちに会い、いろいろな集まりやパーティーにも行った。シアトルの市長にも会い、日本領事ともお話ししたし、有名無名の資産家達にも会った。ともかく話を聞いてくれそうな人がいると訪ねていって話した。 ◇ ◇ ◇  日本の伝統的な石割の道具である「飛び矢」という鉄製の楔を使って1㌧の石を割ってみた。他にもっと簡単で手間がかからない石の割り方があるのだが、「飛び矢」はワークショップで使うので、慣れておかなければならなかった。ビギナーズラックで初めて試したときに上手くいき、興奮して有頂天になって割った写真を沢山撮ると色々な人に送った。  その写真と熱にうなされたかのような熱い文が、シアトル・タイムズ紙のアラン・バーナーという記者のデスクにたどり着いた。アランはすぐに電話してきて、取材をしていった。それがローカル欄の一面に載った。載ったその日に招かれていたパーティーに行ったら、知らない人から知らない人に紹介されるというなんともシュールな経験をした。それは、朝新聞を見た人が僕に気がついて、自分の奥さんとか知人にこう紹介するのだ。「ほら、この人が新聞に載ってたローカルアーティストだよ。ああ、こんにちわ、これがうちの家内のジェーンです。よろしく」といった具合であった。  日系の小柄なおじいさんがすすっと寄ってきて「もう声聞いた?彼らはもう話してきたかい?」といきなり聞いてきた。  「はっ?誰がですか?」  「彼等だよ。やっぱりアメリカの石だから英語で話すの?」  これは僕が新聞のインタビューのときに、 「粟田家の人たち位になると石の声が聞こえるそうですよ」とか何とか言ったのを覚えていたらしかった。  「ああ、まさか、僕にはまだまだ話してきてくれないですよ。何語でも」  小柄なおじいさんと二人で大笑いしてしまった。  流石に高年齢の方達ばかりだったが、まだ新聞を読んでいる人たちがこんなにいるんだな、と感心したのを覚えている。 ◇ ◇ ◇  ゲリー・トンプセンというドキュメンタリー・メーカーの人も知人の伝をつたってこのワークショップの事を知り、ドキュメンタリー用のビデオを撮ってくれる事になった。まだ資金のことはまったく考えてもいなかったのだが(当たり前にあてもまだなかった)、ゲリーは、「いいよ、お金は出来たときで」、と言ってくれた(ワークショップから10カ月後に資金が手に入る事になる。それまでゲリーはただ働きだった)。  ゲリーは資金集めなどでみせる短いプロモーションビデオを何本か撮ってくれた。もちろん、言いだしっぺの僕がメインに登場するビデオなのである。僕も人前で宣伝とかあまり得意ではないのだが、この際構わなかった。自分の切り売りでも身売りでもなんでもドンと来い、そういう感じだった。  そんな事を2年近くも続けた。  そして、2014年。  夏。  とうとうワークショップが現実したのであった。 (続く) (児嶋 健太郎)

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シアトル石垣プロジェクト 1

September 14, 2016 The North American Post Staff 0

「カイル、お前酔っ払ってるから運転しちゃダメ」  カイルは文句ありげに顔を上げると、「エェー…オォーー…だってブツブツブツ(文句を言っている)。じゃあ、トラック行ってくる」と言った。  「運転しちゃダメだよ」  「帰ってくるって」  そう言うと、彼は重そうなブーツをドカドカと鳴らしながらフラフラと家を出て自分のトラックの方に行ってしまった。  しばらくして帰ってくると、手に大きな鉄のランチボックスのようなものを持ってきた。それを家の裏庭のデッキのテーブルにドンと置いた。  不思議に思い、 「何これ、カイル?」と聞くと、 「強いやつ淹れるんだ」と、フラフラとバーナーだのカップだのを取り出し始めた。  見ているといい香りがしてきて、彼はささっと手際よくエスプレッソを何杯も淹れ始めた。明日も作業がある、夜中の12時過ぎである。僕の周りにいた石工たちも、「おお、ありがたい」とか言って集まってきてエスプレッソの小さなカップを持つと、美味しそうに一気飲みするのである。  カイルも二杯くらい飲むと幸せそうな表情になるのだった。  思わず、「あんたらやっぱどっかおかしいよ」と感心してしまった。  「じゃあ、がんばってください。僕は寝ます。おやすみ」――。僕は呆れたまま寝室に引っ込んだ。  夜中の3時頃にマットが目を覚ますと、カイルは庭の芝生の真ん中でタオルを巻いて寝ていたという。「しょーがねーなー、おら、カイル、部屋に入れ。ほら」といってカイルを室内に連れてくるのに成功したが、1時間もしないうちにまた外に寝に行ってしまったそうである。  野生人というより、野生動物に近い感じがした。(後で聞くと、カイルは他の野郎達のいびきがうるさかったから、と結構繊細なことを言うのであった) ◇ ◇ ◇  粟田建設の会長と社長に出会ってから4年。やっとのことで、シアトルで石垣を建設する段取りが整った。  社長達に出会ったのは、ベンチュラというロサンゼルスから一時間半くらい南にある海岸沿いの町だった。2010年春、そこで小さな石垣を建てようというワークショップがあり、僕はそれに参加していた。  ところがこのワークショップのオーガナイザーの爺様がとても頼りのない人で、日本勢を招くだけ招いて自分はさっさと傍観を決め込んだのだった。だから、通訳も、ガイドも、運転手も、オーガナイザーも誰もいなくても、そんなのどこ吹く風で、「ああ、それは大変だ」とまったく他人事かのように構えているのであった。だから、日本語が話せる僕がなんとなくそうしたこと全てをやることになってしまったのである。  しかし、僕にとってはかけがえのない経験になった。社長たちの日本語による説明を訳して、色々お話しているうちに、この人たちはすごい人たちだ、ということが分かった。粟田家二代前の粟田万喜三と先代(十四代目)の粟田純司はともに人間国宝である、只者ではない家系なのであった。  石垣の作業を手伝っているとき、「これはシアトルでやらないと」、と思いついて、シアトルに帰ってきた後もずっとそのことを考えていた。  さて、どこか石垣を建てさせてくれるような所はないだろうか? 資金はどうする? ワークショップの形は? 人数は? 問題はいろいろあった。  唯一問題でなかったのは、石だった。それは、単純に僕が石屋で働いているからであった。後は、とにかく当たってみないことにはどうにもならない。とりあえず、片っ端からあたってみることにした。  日系企業はよさそうに見えてなかなか難しかった。というのも、例えば一つの会社の敷地内に石垣を建ててしまったら、完成した後にそれが私物になってしまって、僕のやろうとしていることの精神と食い違ってしまうことになる。それと、もし、資金源が一つとか二つとか少なかったら、なんとなくそのお金を用意してくれた人、又は組織なり団体なりに依存する形になってしまうのでこれも又困る。  そんな訳で2010年の冬には、とうとう行き詰ってしまったのである。 […]

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私の東京案内 1

 まず京都、それから奈良や鎌倉というのが日本観光の定番ではないだろうか。「古都」を選んでいるわけだが、原爆投下のあった広島をこれに加える向きも、特にアメリカ人のなかには少なくない。銀座や渋谷など、東京の大繁華街はパリやニューヨークに比べどれほど違うのか。「日本へ行くまでもない」、そういう見方からすれば古都の選択は妥当と思われる。最近は買い物を主目的として日本へやってくるアジアからの客が多く、なかにはいわゆるリピーター(二度、三度の訪問)もいるので行く先の選択肢も増えている。東京を目指す人も増えているようだ。  東京を「古都」と思う人はいないだろうが、江戸時代以降400年近い歴史を持つことを考えると立派な古都である。太田道灌がさびれた漁村だった地に砦のようなものを造ったのは15世紀で、軍事面での地の利をそこに見て城(江戸城もしくは千代田城)を築いた家康だが、その後の徳川将軍たちによる政治が250年近く続き、その間、江戸は経済と文化の中心地(大阪と京都と分け合ったにせよ)であり続けた。明治の時代になると東京と名を変えて新しい出発したが、その後も大正、昭和、そして今の平成の時代に到るまで激動の歴史を首都として見守ることになる。だからと言っては語弊があるが、この大都市は探訪すればするほど興味のつきない場所なのである。  「東京」になってからの変わり方のほうがずっと激しいのだが、それ以前の江戸時代には「下町」に活気があった。江戸の大名たちは競って隅田川沿いに邸宅を建て、その東に住んだ町民たちの町には活気があり面白かったのだ。時代とともに人びとの生活様式もとりまく環境も変化するし、それを反映する町のかたちも違ってくるのはあたりまえだが、東京はおおざっぱに言って西に向かって拡張していった。東京の物語を語ることは、経済と文化や生活圏が隅田川沿いとその東の地域(下町)から城の西に広がるいわゆる「山の手」地区へ変わっていった経過、それぞれの興隆のありさまを語ることであろう。  近代都市となった東京の表面は(中味もそうだが)、明治元年以来、少なくとも三度の激変を経験してきた。まず、1923年に起きた関東大震災。地上のほとんどが破壊されたのだが、地震そのものよりも40時間燃え続けた火事のためである。浅草は当時東京一の繁華街だったのだが、その中心部まで火はとどかなかった。でもすぐ東隣の吉原では6000もの遊女たちが命を失った。  大震災のあと、東京はすぐさま立ち直ったが、1923年前の街並とはずいぶんさま変わりがした。それまでの建物の茶色と黒の美しい調和は崩れ、ヴェニスに匹敵するといわれた水の町東京は川と運河をだいぶ失った。地震で破壊された資材がそれらを埋め、道路となったりした。そして人びとはこれを期に西へと移動していく。あたらしい私鉄の線が郊外へ向かって走りはじめ、電車の始発点の駅にはデパートができて人が集まった。  その後東京は再び焼け野原となるが、今度は太平洋戦争の終末期に米軍の落とした焼夷弾による火事。町を建て直すにあたって再び運河と川が、そして今度は東京湾の一部も、埋め立てられた。例えば銀座の数奇屋橋が姿を消したのは大戦後すぐの朝鮮戦争景気で湧く1950年頃だったが、そこに高架の高速道路ができた。その橋はもともと江戸城の外堀の一部だったのだが(地下深くに残った大きな石が発掘されている)、今はバス停の名としてしか残っていない。  そして1964年開催の東京オリンピック。東京の顔はふたたび大く変わる。競技に使われた場所のひとつが代々木競技場だが、このときに米軍から返還された。大戦前は練兵場だったのを米軍が接収、家族の住居地にした。日本人はオフリミットの場所だったのだ。オリンピックのために外国から来る選手や観客の足を念頭に新しい道路ができた。古い道路は道幅が拡張され、両側にたつ建物は平屋からたて長のビルへと大々的に変わった。今の東京には古いものは地上にはほとんど残っていない、と言えるのかもしれない。  オリンピック後も東京の顔は変わっていった。1980年代のバブル経済期の土地価格の高騰にともなって地上げ屋が暗闘し、古いビルや家がずいぶん壊されたりした。こうして古いものはあっさり捨てられ(その方が経済価値があるから)新しい高層ビルが建った。たしかに外観はすばらしくなったが、消えてなくなったものはずいぶん多い。それらは古い写真と人の記憶のなかに収まることになったわけだが、東京についてのエッセイや探訪記が今も書かれ出版され続けている。それは人びとが東京に感ずる一種のノスタルジー、消え去ったものへのオマージュなのかもしれない。 (田中 幸子) 編集部より:筆者への連絡先はytanaka03@gmail.comになります。

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沖縄県人会 鼓衆、当地で活躍 「エイサー」の掛け声とともに

 シアトルも毎年の恒例行事、夏祭りの開催が集中する季節を迎えた。屋台や盆踊りなど、さまざまな訪問客が集まる各地域のイベントでダイナミックな演奏を見せる太鼓集団がある。独特の穏やかさと迫力の緩急を持つ琉球芸能を披露する沖縄県人会太鼓クラブは結成9年目。今年7月からは沖縄の浦添市を拠点に置き、県外や海外でも活躍する親団体「鼓衆 若太陽(ちじんしゅう わかてぃーだ)」の名前をとって「沖縄県人会 鼓衆」となった。

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JETプログラム壮行会 新たに35人、国際交流に力

 JETプログラム(外国青年招致事業)の参加者が渡航を翌日に控えた22日、大村昌弘総領事公邸で行われた壮行会に出席した。シアトルからは35人が参加する。  今年で30回目を迎える同プログラムの参加者数は、世界65カ国から6万2千人を超える。外国語指導助手(ALT)、国際交流員(CIR)、スポーツ国際交流員として日本各地に赴任、文化交流や外国語教育の普及などを通し、地域レベルの国際化推進の役割を担う。  日系の参加者としては、シアトル大学卒のマヤ・ラールさんが新潟県に赴任する。ワ州日本文化会館で日本文化に親しんできた経験に加え、去年上智大学で交換留学をしていたこともあり、日本で働くことにさほど緊張していない様子だった。「子どもに教えるのが楽しみ」と意気込みを話す。  壮行会に出席した兵庫県ワシントン州事務所の河知秀晃所長によると、兵庫県では公立高校すべてにネイティブの英語教員がいるという。兵庫からも日本語教師が派遣され、草の根レベルでの国際交流が行われている。  JETプログラムの任用期間は1年間。最長で5年まで延長することができる。 (大間 千奈美

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