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シアトルに残る歴史 移民が作り上げた日本町の昔と今

November 5, 2015 The North American Post Staff 0

旧日本町にある日本語道路標識。 その通りには日本語の看板を掲げた商店が並び、日本人の店主が行き交う人々に声を掛けていた。夕方には仕事を終えた男たちが疲れを癒しに銭湯に集まる――。これは昭和日本の光景ではない。かつてシアトルに存在した日本人街、通称日本町の光景だ。1880年からノースウエストに爆発的に増えだした日系移民らは、それぞれが移り住んだ街にかつて彼らが暮らした「日本」を作り出した。シアトルも例外ではなく、移民らは苦しい日々の中でも助け合い日本らしい暮らしを送ることができた。1940年を過ぎる頃までは……。  日本町の記憶 移民一世らが作り上げた日本町。そこで生まれ育った二世らの記憶に日本町の日々は強く刻み込まれている。日本町で若い時代を過ごした二世の岡本トッシュ、トシコ夫妻に話を聞くことができた。 「よくジャクソンカフェで友達と集まっていた」と語ったトッシュさん。トシコさんが「メイン食堂の肉豆腐定食が美味しかったよね」と言うと、トッシュさんもおおそうだそうだと盛り上がる。 彼らの話しぶりを見ていると、往年の日本町にいかに活気があり日系人たちにとっての憩いの場だったかを伺えた。日本町最盛期の地図を見てみると、ウォーターフロントから7番アベニュー、そしてジャクソンストリートから南はレーンストリート、北はイェスラーウェイにかけて、目につくのは日本語のビジネスのみだ。 「食事をするのも薬を買うのも、すべて日本語、日本式なサービスが受けられた」とトシコさんは語ってくれた。英語が堪能でなかった一世たちにとって、日本語のみで過ごせる日本町の存在は非常に大きいものだったろう。 奪われた日常 ここまでの規模を誇った日本町は姿を消してしまった。 日系人への排斥は、彼らの入植当初から存在した。一世らは「我慢、忍耐」という気概を捨てず、1924年の排日移民法制定後も激しくなる排斥を前にたくましく生活し、日本町は発展を続けていた。しかし1941年、日米開戦とともに状況は大きく変わる。真珠湾攻撃後、怒涛の勢いで進撃する日本軍に対し、西海岸各都市は「次は我々の街が――」という強い恐怖を感じていた。トッシュさんは、日本軍機の低空侵入を防ぐ疎塞気球がピュージェット湾に無数に設置されていた異様な光景が忘れられないという。開戦により排斥は敵意に変わっただけでなく、太平洋岸に住む日系人の強制退去が始まった。日本町のみならず、販売者の大多数が日系人だったというパイクプレイスマーケットなどから日系人が姿を消した。 消えた日本町、それでも折れぬ心 収容所から帰ってきた日系人が見たものは変わり果てた日本町の姿だった。かつて日本語の看板で溢れた通りは英語の看板となり、街にあふれた日本語を聞くことはなかった。商店はリース物件が主だったため、収容所生活の間に次の借主に貸され、シアトルに戻ったときには既に新しい商売が始められていた。まねき、パナマホテルなど、いくつかの商店やホテルはビジネスを継続できたが、多くのビジネスが日本町を失った厳しい環境もあり廃業に追い込まれた。 第二次世界大戦における日系人の活躍があっても、戦後の日系人の境遇は厳しいものだった。日本町という古巣を奪われ、職でも日系人というだけで門前払いや低賃金など排斥を受けたという。 一方で彼らが常に心に言い聞かせていた言葉があるという。「我慢だ、仕方がない」という言葉だ。 「米国で生まれた我々二世にとって忍耐という精神は本来備わっていない、しかし一世の親たちが私たちにこの大和魂を叩き込んでくれたおかげで我々は逆境の中でも立ち続けることができたのです」とトッシュさんは語る。 歴史に消えゆく日本町 各地に散ってしまった日系コミュニティーはある問題を抱えていた、一世の高齢化だ。多くが満足のいく英語を話せなかった一世らにとって、米国での通院は大きな苦痛となった。これに声を上げたのが二世らで、1975年に一世コンサーンズ(現日系コンサーンズ)、76年にシアトル敬老が設立された。 かつて日本町で可能だったように日系人同士で支えあい、日本語のみで相談できる環境を作ろう――。再び集った日系コミュニティー。一方、盆踊りなどの伝統行事には駆けつけるが、生活の中心として日本町に戻ることはなかった。現在旧日本町エリアには日本語看板の設置など日本町回顧活動が行われているが、多くの二世がかつてのような日本町復興は難しいと語る。「コミュニティ人口も減り、三世、四世らは完全に米国社会の一員となっている今、日本町のようなものが必要とされる時代は終わった」という意見も聞かれた。 ストリートカーが敷設されるジャクソンストリートに立ったとき、70年前までここに「日本」があったことを信じられる人がどれだけいるだろう。確かに日本町は歴史に消えてしまうのかもしれない。だが、100年以上前に身一つで移民船に乗り込み、多くの困難にぶつかりながら異国の地で「日本」を作り上げてしまうほど力強く生き、米国社会でマイノリティの権利拡大に大きく貢献した日系人たちの歴史を忘れてはならない。 日本町を回顧する行事は頻繁に行われている。当時へ思いを馳せる機会として脚を運んでみてはいかがだろうか。 今週末1日の午後1時から、KOBOやカナメレストランの入るジャクソンビルの裏庭Chiyo’s Gardenで、無料のジンギスカンBBQパーティー「Nihonmachi Autumn Celebration」が行われる。また5日にはパナマホテルカフェで地元ミュージシャンのポール・キクチさんらが、かつての日本町を回顧する音楽行事「Songs of […]

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伝える、日系人収容所の歴史

関連プロジェクトへ、国立公園から助成金 第二次世界大戦中の日系人収容所の歴史を伝えるプロジェクトへ国立公園局から毎年助成金が出されている。今年は全米各地で行われる20プログラムへ合わせて280万㌦を助成。シアトルでのプログラムも援助を受けている。 同プログラムは毎年約300万㌦の予算が組まれ今年で7面目を迎える。当地を含め全米各地の日系史保存プロジェクトの多くが助成を受けている。 今年はシアトル市内インターナショナル・ディストリクトのパナマホテルの保存活動を担当するナショナルトラストへ約13万7千㌦を助成。パナマホテル地下に眠る日系資料の保存、修復作業に充てられる。同所は4月にナショナルトラストが指定する国宝認定をシアトルで初めて受けた。今後は地元ウイングルーク博物館の協力で歴史的重要物として保存活動が続けられる。 そのほかにも当地を拠点とし第二次世界大戦を含めた日系人の経験をデジタルで伝える非営利団体「デンショー」がオンライン日系百科事典などの2プロジェクトで36万㌦を受けた。またワイオミング州ハートマウンテンのプロジェクトは約9万㌦の助成を受けている。 詳しくはwww.nps.gov/JACSまで。 (N・A・P)