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オーバンに残る日系史

September 9, 2016 The North American Post Staff 0

当地日系移民の歴史を探る上で欠かせないのが、日系墓地の存在だ。シアトルでいえば、キャピトルヒルにあるレイクビュー墓地は、日系人区画は広範囲になり、毎年のメモリアルデーの戦没者慰霊祭が開かれている。またクイーンアンにあるマウント・プレザント墓地は、大北鉄道の路線事故で犠牲となった多くの日系移民工夫を慰霊している。  こうした日系墓地において特異なのが、オーバン市のパイオニア墓地だろう。1860年代の移住者による墓地を始まりとするが、グリーンリバーの洪水などで多くが丘の上の墓地へ移る中、20世紀以降は、徐々に移住者を増やしていた日系移民の墓地として利用されることになった。  資料によると、1900年段階で、オーバン地域には432人の日系移民が生活していたという。1912年建立の白河本願寺は1914年、オーバン市からパイオニア墓地の東端から25フィートの区画に日系墓地設置を認可され、また同所の管理を任された。オーバンに居を構え、今3世代目となる夏原ファミリーが長年にわたり、清掃を含めケアを続けたという。メモリアルデーには白河本願寺の主催による特別法要が毎年行われている。  墓地に入ると、寺田、夏原、田辺、山下、山田、米谷など、墓石に名前が刻まれている。数は120ほどあるという。現在当地日系社会で活躍、このオーバンの墓地を縁とする関係者も少なくない。  同所は8月、同市とキング郡から歴史史跡としての認定を受けた。初期の墓石はコンクリートで作られ、長年にわたる雨、あるいは洪水で浸食し、ほとんど文字が見えない。また破壊された形跡のあるものも少なくない。今後、同地に足跡を残す日系人、またオーバンの貴重な歴史資料として保存活動が進められる。  オーバンは白河本願寺の盆踊りが毎年開催されているが、近年は同地における日系史を振り返る関連イベントが続いている。別の歴史史跡、ニーリー・マンションの庭には、堀一家が利用した外付けの風呂場が再建された。同市ホワイトリバーバレー博物館では、日系人収容所関連の展示会が11月まで行われている。パイオニア墓地もまた100年以上続く歴史の象徴として加わることになる。  (佐々木 志峰)

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日本の歴史を旅する 112 鎌倉 2

田中 幸子 八幡宮はあとにして、今日は駅前広場を横切るとすぐに右に曲がって小町大路へと出た。そこを5分ほど歩くと「日蓮辻説法跡」がある。日蓮上人が新しい仏教について布教を始めた場所だが、他派の人々の反発を買って石を投げられたりしたという。1253年のことだ。その頃のこのあたりは、北側が武家屋敷、南側が商業地区になっていた。だから、日蓮はいわば繁華街に出て辻説法を試みたわけだが、今はあたりは静かな住宅街。「辻説法跡」の小ぶりな碑が建っていなければ見落とすことまちがいない。 日蓮宗と鎌倉は縁が深いから寺の数も少なくない。妙本寺も日蓮宗の寺、駅から数分の場所にある。境内はたいへん広く、奥は深い谷(やと)に抱かれている。三方を山にかこまれ前面は海、こういう立地が頼朝をして鎌倉に幕府を開かせた理由だが、軍事的な見地からである。だからあちこちに「やと」がある。、外へ出るには山を削って道をつくらねばならなかったから、今もその「きりどうし」が何カ所かある。そのひとつを通ったが、あたりは少しだけ暗くて、気持ちのいい風が吹き抜けていた。 妙本寺境内へ入ると、その一隅に比企氏一族の古色蒼然とした墓が並んでいる。頼朝亡き後に勢力を表面に押し出してきた北条氏(政子の実家)が、もうひとつの勢力である比企氏を落とし入れるために図った事件が「比企の乱」だが、北条氏は不意をつき先制をかけた。比企氏は滅びる。 伊豆半島一円に以前から強い勢力をもっていた北条氏は、源頼朝を助けて幕府を開かせたのだが、自分たちが頼朝を表に立てたのだと考えていたと見ていい。だから頼朝の血筋は3代で終わる。北条氏が「執権」として実権を握った鎌倉の政権は、その後足利尊氏が京都に政治を移すまで続くことになる。 武家がつくった鎌倉という都には争乱がいくつもあり、酷烈な血の歴史が最初にはあった。乱のたびに建造物は破壊され戦火をあびたから、当時の文化遺産は少ししか残っていない。そういう歴史の暗さや厳しさを底に沈めて、今の鎌倉は快活な顔を見せている。妙本寺境内の入り口には寺の経営する幼稚園があり、元気な声が盛大に漏れていた。 次の向ったのは宝戒寺、通称「萩寺」という。妙本寺からだと歩いて10分とかからないが、こちらは天台宗の寺だ。北条家が高時の代になって滅ぼされたあと、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建てられた寺だから、妙本寺よりだいぶ新しい。その名のように、秋に来ると庭の萩がみごとである。 あまり大きくない境内へ入って行くと、大きなしかもかなり古そうな石がまず目に入る。実にいい形で、しかも懐かしげな風情が漂っている。そこに刻まれた文字によると、その石塔は薬師如来なのだとか。鎌倉にはいわゆる花の寺がいくつかあるが、この寺は冬に咲くしだれ梅で知られる。数百本もある椿もみごとである。 足利尊氏は北条氏を倒して室町幕府を始めた人だが、その辺の出来事は「太平記」という物語に描かれている。多くの武士たちがそれぞれに己の家の興亡をかけ、また忠誠心によって戦ったときの話だが、手に汗を握るエピソードにあふれる一大叙事詩である。宝戒寺の小じんまりと整った寺を後にして、横浜国立大学の付属小学校を見ながら、次に八幡宮の境内へと裏路から入って行った。

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日本の歴史を旅する 112 鎌倉 1

田中 幸子 ずいぶん昔のことだが、わたしが3年間通った中学校が鎌倉にあった。横浜市の住民だったからいわゆる越境入学をしたわけで、バスと電車で通学した。その御成中学校は校風が自由なことで知られ、わたしは楽しい学園生活を過ごした。今でもその頃のことはよく思い出す。   「まず体を鍛えよ」というのが校長の意見だったから、ときに生徒を授業から解放して鎌倉の寺や裏山、街中を歩かせた。だから鎌倉の地理には明るい。   卒業後も鎌倉へはよく行ったし、今も日本へ行くと足をのばす。そのたびに、「おかえりなさい」と迎えてくれる90歳をすぎた友人のご母堂が近くの片瀬というところにいるが、そこへ顔を出すこともある。   今回の旅は東京の近辺ということで日帰りの旅をしている。そこで、よく知っている場所とはいえもう一度ゆっくりと鎌倉を見て歩こうと思った。ベースは片瀬海岸にある「かきや旅館」、2泊することにした。   JR鎌倉駅の裏口から出ている私鉄の「江ノ電」に乗ると、片瀬は20分ほど、江ノ電の一日乗車券を(700円)を買って、あちこちの寺や鎌倉名所をまわり、最後に八幡宮へも行くという計画である。   古都鎌倉のホテル事情には詳しくないが、いわゆるビジネスホテルはあまり侵入してきてないようだ。「かきや」はもっぱら釣り人たちのための小宿だった。今も釣りのために来て泊まる人もあるが、片瀬海岸は目と鼻の先である。       「かきや」はいわゆる民宿、わたしの泊まった日には外国人の長期滞在者が一組あった。畳みの部屋だが、窓から眺められる日本風庭園もあるのに格安(素泊まりで4500円)なのが外国からの若い旅行者に人気がある理由かもしれない。食事は通りをへだてた「かきや食堂」ですることができる。魚中心のランチメニューはどれも安く(600|800円)、わたしがその日選んだ「本日の定食」はたいへん満足のゆくものだった。   鎌倉といえば寺。禅宗と日蓮宗の寺が多いが、それにしてもずいぶんたくさんある。どこを選ぶか決めるために地図を研究して、一日のスケジュールを組んだのだが、まず鎌倉駅へ出てその周辺を歩き回ることから始めることにする。 駅前の広場に立つと、昔のことがいろいろ思い出された。60年も前にあった店が今も健在だし、警察署もカトリック教会も元の場所にある。駅前の左手に見える褪めた朱色の鳥居も、鶴岡八幡宮へと続く若宮大路の入り口も、そっくりそのままである。反対方向の由比ガ浜へ至る通りもほとんど変わっていない。若宮大路の真ん中の少し高くなっている土の道は「段かつら」と呼ばれる八幡宮への参道だが、そこをボランティアらしき人たちがほうきで掃いている。   源頼朝が武家による政治を行うべくここ鎌倉に入り、すぐに造らせたのが段かつらだが、まん中がすこし高くなっている。妊娠していた妻の政子のためを思ってのことだという。道の両側には桜の木が植わっているから、ここは春になると花のトンネルとなる。鎌倉を訪れる人は年間1800万人にのぼるそうだが、この道をとってまず八幡宮へ行く人が多い。

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日本の歴史を旅する 111 久里浜 2

田中 幸子 とにかく、ペリーは第一回目の来航のときは要求をひっこめて立ち去った。「また来年来る、もっとたくさんの軍艦を率いて」という脅しの言葉を残して。そして半年後には、その言葉通り9艘もの艦隊を江戸湾の入り口に並べた。幕府はこれに屈し「日米和親条約」を神奈川(横浜)で結ぶのだが、それが1854年。これによって、伊豆半島南端にある下田と現在の北海道函館の2港が米国に、ついで西欧の他国に開かれた。   これを幕府は朝廷にも諸藩にも相談せず一方的にやった。当然のことながら、反対する勢力は立ちあがり、日本中にいわゆる「尊皇攘夷」の嵐が吹き荒れた。「中国の轍を踏むな」という憂国の士たちが剣をふるって「攘夷」、つまり夷敵(西欧の国々)を排除することを主張した。そんなことを言っていられない時代であるのにもかかわらず、そう主張したサムライたちは西欧人を何人か殺害した。下田に置かれた米国領事館はその頃は麻布(東京)の善福寺に移っていたが、こういう攘夷派の一味によって1862年に放火の憂き目を見ているし、イギリス領事館では通訳が殺害されている。無法に近い日々であった。   それらを統制できないでいる幕府の力は地に落ちたのだが、「倒幕」が本来の目的でそのために攘夷を主張するむきもあった。「攘夷」と「尊王」(将軍ではなく天皇をとの主張)がひと組で叫ばれた所以である。それまで遠方にあって力を蓄えてきた薩摩や長州などの雄藩の下級武士たちが、倒幕をめざして活動を始める。徳川幕府が開かれかれてから二百数十年が経っていた。   「太平のねむりを覚ますじょうきせん、たった四はいで夜も寝られず」という狂歌がはやった。「じょうきせん」とは上等なお茶の銘柄で、それと「蒸気で走る船」、これを日本人ははじめて見たのだが、をかけてある。「四はい」は、茶の茶碗四杯であり船の数でもある。   ペリーの艦隊を指す「くろふね」は、それが鉄の胴体を持っていたからと思われる。小さい木の船しか見たことのない日本人は、これを見ておおいに驚いきあわてた。久里浜まで見に行く人は少なくなかったし、なかには小舟を出して近づこうとする者さえいた。別の項でも書いた吉田松陰もそのひとりで、ニュースを聞くや否や道中を走って浦賀へ向った。着いてみると師の佐久間象山はすでに来ていたことは前にもふれたが、ふたりは小高くなった場所から沖を見つめた。ふたりとも、オランダ語や中国語で書かれた本によって外国事情のおおよそは知っていた。アヘン戦争の例もあり、日本の運命にかかわるこの事態をおおいに憂慮した。   久里浜の狭い砂浜に立って沖に目をやりながら、わたしは松陰たちが考えたことを想像してみた。左手に浜を囲むようにしてある少し高くなった地点を眺め、約250年前、彼らはああいう木々や草むらに隠れて見慣れない船を凝視したのだろう、とそのときの情景や人びとの心のなかを察しようと試みた。そして、どこかで読んだあることを思い出した。あのとき、ペリー提督は久里浜で出迎えた幕府の役人に来航の理由を告げたのち旗を2つ差し出した。そのひとつが白旗だったというが、彼が何を意図していたのはともかく、その白旗が1945年9月にミズーリ号の甲板上にはためいていたという。日本が太平洋戦争に負け、無条件降伏をした際のことだ。このエピソードをもって「歴史はくり返す」と指摘するむきもあるし、ペリーの白旗を掲げさせた占領軍のマッカーサーの意図を読み解こうとする人もいる。   わたしが立っている浜辺の背後には「ペリー上陸記念館」がある。上陸80周年を記念して、1987年に町の人たちが建てたものだが、ごくありきたりの住宅街のはずれに位置している。海の眺められるその場所には小さい児童公園もある。記念館のなかにはいくつかの帆船や蒸気船の模型が陳列されており、くろふね来航当時のありさまを描いた絵もかかっていた。前庭には大きな記念碑が建っているが、一隅には交渉にあたった日本側代表の胸像もある。   わたしが訪れたのは風の強い晴れた午後だったが、記念館への入場者は多くなかった。公園では子供が数人走り回っているだけで、あたりは静かだった。ペリーの来るずいぶん前の1600年のことだが、ウイリアム・アダムスというイギリス人が日本に漂流している。そのことを日本の子供たちは知っているが、アダムスは三浦安針と名を変えて日本に住みついた。江戸幕府のために働き、日本人の妻を迎え、日本でその生涯を終えた。夫婦の墓が今わたしのいる場所からそう遠くない小高い山頂にあり、海の方角にむけて立っている。

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日本の歴史を旅する 110 久里浜 1

田中 幸子 年に一度の墓参りをし、そのあと久里浜へ行くことにした。久里浜は私鉄の京浜急行線に乗ると横浜から30分ほどの距離だが、寺はその沿線にある。JRの横須賀線も走っているが、よくあるように私鉄の方が運賃が多少安く、少し早い。生まれ育った町に近い地域だから、こういう交通の使い方についてはよく知っている。   最初は小学校の遠足で行ったと思うが、久里浜はわたしにとってなじみ深い地である。地図を見るとわかるように、三浦半島の南端にある。太平洋を進んできた船が東京湾内に入るには浦賀水道という狭い海路を通るが、その水道の入り口に位置している。いまだに米軍基地のある横須賀に近い。その昔(1853)、米国大統領の命で4艘の軍艦を率いたМペリーという提督がここへやってきた。   久里浜の駅に着くと昼近い。まず駅ビルのなかの食堂で簡単な昼食を取り、それから海岸をめざして歩いた。この地へのわたしの関心は2点ある。幕末期に突如首都近くの海上に現れた「くろふね」、そのニュースに接して駆けつけた吉田松陰や佐久間象山などの知識人。彼らが異国の船を凝視しに海岸へ行き、そのときの状況をその場で想像してみようと思った。どこで、どのようにして「くろふね」を見つめたのか。そして彼らは何を思ったか。もうひとつの目的は「ペリー博物館」を見ることだった。   米国海軍インド艦隊司令官のペリーは浦賀沖に艦隊を泊めた。そこから江戸まではごく近い。そして、将軍の住む江戸城は海に近接しているし、当時としては世界でもまれに見る大都市がその周りに控えている。突如として現れた異国の軍艦に江戸中、いや日本中が蜂の巣をつついたようになったのは言うまでもない。陸からは見えなかっただろうが、ペリーの船には大砲がいくつも江戸城の方角に向けてあったという。通商を求める自国の大統領の親書を持っている、それを江戸幕府の責任者に直接手渡すまでは引き下がらないと主張したペリー司令官はかなり強気だった。「目下鎖国中だから用があれば長崎へ行け」という幕府の回答を一蹴した。   浦賀沖にやって来る前にペリーは日本開国の方策を考え、準備をしている。そして彼の選んだ方法は「友好ではなく恐怖を与える」というものだった。そのように中国で実行し戦争までしたが、それは成功していた英国政府、その高官から仕入れた知恵だったという説もある。つまり、「アジア人はわれわれとは同等ではない、野蛮人なのだ」という植民地大国の英国の見解に拠ったのである。   このペリーという男はこの旅行記に何回も登場するが、本当はどんな人だったのか。日米修好条約がなって初めて日本の代表一行が米国へ渡ったときに見たペリーの印象を、随行員のひとりが書いている。使命を果たして帰国していたペリーは一行を自宅に招いたらしいが、そのときの模様としてその筆者は言う。彼は家でずいぶん遠慮しているように見えた。反対に、彼の妻は威張っていたが、それはペリーがずっと金持ちの家から妻をもらったからではないか。西洋のマナーについての勘違いがあるにしても、この観察は案外当たっているのかもしれない。   ペリー来航より少し前のことだが、ロシアも同じく通商を求めて江戸幕府にアプローチしている。こちらは地理的には日本により近いのだが、幕府の意向を入れて素直に長崎へと向かい、脅し外交の方法は取っていない。ペリー提督よりも紳士的だったというべきか。ペリーの強硬な態度は新進国米国ならではだが、日本に港を開かせる必要度は緊急だったからともいえる。   それまでも、太平洋を渡ってきた米国の捕鯨船は日本海沿岸をうろついていた。そのために鹿島灘に面する水戸藩などはだいぶ神経をとがらせていたのだが、捕鯨船にとっては水と燃料の補給が不可欠だったのだ。皮肉なことに、土地の農民や商人のなかには抜け目なく密売する者もいたというが。

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日本の歴史を旅する 109 武蔵野 4

田中 幸子 野川に沿ってしばらく走ると近藤勇の生家がある。今も何代目かの方が住んでおられるが、門の外からのぞいて、農業を営んでおられると見うけた。その家から道路を挟んだ場所に勇の墓があった。その墓を預かっている寺の前には近藤について説明した碑が立っている。社会科の授業の一端なのか、何人かの小学生が碑の前でノートを取っていた。彼の墓碑は他にもいくつかあるそうだが、その最後にまつわる複雑な事情をもの語っている。   聞くところによると、近藤勇にまつわる歴史の保存を試みたり調査の成果を広く配布する努力をしている市民グループが調布にはあるという。近藤や新撰組のことをどう子供たちに教えているのだろうか、と少々気になった。   寺の隣に道路に面して小さくて素朴な木の鳥居があった。こんなところになんで神社が、と思ってよく見ると「近藤勇神社」とある。ああ、彼も神様にされてしまったのか。萩で吉田松陰神社を見たときと同じ感慨を持った。   新撰組の副長の土方歳三は、司馬遼太郎氏によると、組の組織化と日々の運営に特異な才能を発揮したそうだ。近藤のカリスマ性に対して、こちらは同士たちをどのように組織し動かし、事をなすかに関心があった。彼は近藤の刑死後関東を逃れ函館まで行ったが、そこで幕府の海軍奉行だった榎本武陽の率いる抵抗運動に参加して官軍と戦っている。   自分は薬屋だ、と土方はよく言っていたらしい。多摩川ぞいの生家は農業のほかに薬を作って売っていた。近隣のひとたちは、かれの生家を「大尽」(裕福な家)とよんだらしいが、薬は傷や打ち身によくきいたそうだ。土方は薬を製造する作業を手伝ったが、十代のころから多勢の小作人を率いて近くの多摩川や浅川の岸辺に生る草を刈り、干し、それを焼いて粉にする作業を取り仕切った。近隣の人たち土方の生家を「大尽」(裕福な家)と呼んで称えたらしい。   やがて土方は江戸の商家へ奉公に出されるが、すぐ戻ってくる。そして剣術を学び始めたが、近藤が師範をしていた道場主の佐藤家とかれの生家は親戚関係にあった。故郷を同じくするふたりの男はお互いを信頼し助け合ったが、北海道での土方は、仲間に鉄砲や大砲の訓練もほどこしたという。   調布駅からいくつ目かに高幡不動という駅がある。関東三大不動のひとつとされる高幡不動があり、駅をでるとその広大な境内が目前にある。わたしが訪れた日は七五三を祝う家族でにぎわっていたが、若いカップルたちの散策する姿も見られた。観光誘致という動機もあるのだろうが、高幡不動は「歳三忌」を土方の命日に行い、人を集めているという。境内の一隅に近藤と土方の碑があり、「殉節両雄の碑」と書いてあった。   顔の部分をくりぬいた等身大の土方の絵看板が駅前の茶屋の店頭に置かれていて、観光客はその後ろに立って写真を撮られている。新撰組の盛時には200人近くもいた組員たちを厳しくしつけ、恐れられた土方もここではなんとなく愛嬌がある男となっている。   土方の晩年の写真をみると、洋服姿で髪はオールバック、それがなかなかサマになっている。新しい西洋風を進んで身につけるタイプだったのだろう。近藤とは違った意味で興味のある人物だが、この近辺の人たちにとっては地元出身の英雄なのである。生家も残っていて、その一部が私設記念館となっている。   ここまで来ると日野市であるが、土方の頃には石田村といった。調布市の野川沿いにある近藤の生家のあたりは、郊外といっても田園風景が残っていたが、そのもう少し先の土方の生家の周辺は往時の面影がまったく残っていない。この辺が都市開発の波をもろに受けたからで、今あるのは画一の住宅や商店街である。土方が遊び、かつ働いた淺川は、すぐ近いにもかかわらず昔の雰囲気はまるで感じられない。   ところで、前述の「近藤勇神社」は誰が建てたのだろう。しばらく考えていたらラフカデイオ=ハーンのことを思い出した。日本に住みつき帰化までしたハーンは、日本社会と文化、または伝統や習俗について考察をめぐらせた人だが、「かみのくに日本」という本を書いている。日本人の心の底に眠っていて行動や思想に影響を与えるのが神道である、と断じている。   この説に解説的にひとつだけ、しかもごく簡単に加えると、日本人にとっては「死者」はすべて「神」だ。だから、吉田松陰や近藤勇が神として祭られるのは不思議ではない、ということになる。加えて松陰にも近藤にも多大な信奉者がいた。   […]

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日本の歴史を旅する 108 武蔵野 3

田中 幸子 武蔵野の一隅に母校を訪ねた数日後、今度は調布へ行ってみた。そのあたりもかつては武蔵野の一部だったが、京王線で新宿から20分の距離の今は典型的な郊外である。駅の周辺はたいへんなにぎわいである。ここには近藤勇の生家や墓所があるので、知人に案内してもらって駅から自転車を走らせた。   「調布」という名前の由来だが、もとは韓国語の「苧布」であったらしい。多摩川べりに住んだ渡来人たちがあたりに生える草から布を作り、それを税として納めた、つまり「調布」は布の税だと本で読んだことがある。武蔵野のこのあたりにはその昔は朝鮮からの帰化人が多かったことを示唆している。   自転車で10分ほど走ると野川という川につきあたった。川の両側は自転車道および遊歩道として整備されていて、水かさの多くないその川では水鳥が遊んでいる。しばらく行くとあたりには農家が点在していて、今も田園風景がみられる。そういえば調布の街中でも、よく手入れされた畑がバス通りに面してあるのを見かけた。このあたりにはまだ小農家が残っていることが、無人の野菜スタンドが道端にあることによってもわかる。   自転車を止めて一休みした。近くには、子供をまじえた都会人のグループが野菜の収穫をしたらしく、作業の手をやすめて休憩していた。小学校の「体験農業の一日」というものらしい。都会のなかに空いている土地をみつけ、それを借りて畑仕事をする人が東京の近郊でしばらく前から増えている。   近藤勇(1834―68)は映画やテレビドラマでおなじみの人物、ご存知新撰組の組長として幕末に活躍した人である。武蔵の国は多摩郡の農家の出であるが、そのあたりでは知られた剣道指南の近藤家の婿養子となった。将来を見込まれて道場をまかせられたわけだ。生徒は近辺の農家の子弟がほとんどだったという。江戸時代もこの頃になると、武術を身につけようとする農民が多くいたことを物語っている。やはり多摩地区の出の土方歳三は近藤の下で新撰組をよく支えた人物だ。遠縁にあたる近藤の道場で剣術を習ったが、こちらは大農で薬の製造も手がけた家の息子である。   近藤や土方が生まれ育った地では子弟に剣術を習わせることが普通だったらしいが、剣術の徒が何人も育ったこの多摩郡という地が関東地方の西はずれにあったというのは興味ぶかい事実だ。そこが幕府の直接支配した「天領の地」だったことと無関係ではない。徳川将軍家はそういう天領の地を全国にいくつも持っていたが、諸藩の領地とは違ってそこでは支配のあり方はいくぶん緩やかだった。税も少なかったというから、そういうことと農家のせがれが剣術使いになることとはつながっている。   新撰組はもともと将軍が京都に上洛する際にその護衛のために組織されたものである。だが、いわゆる「志士」たちが全国から集まり、京都の町が騒然、しかも物騒になると、会津藩の藩主松平容保が京都守護職につく。近藤たちはその配下として京都の治安に携わり、反幕府を掲げて全国から集まってきた志士たちを見つけだして殺害する、それが使命だった。容保はわりのあわないこの仕事を押し付けられ、いやいやながら引き受けた。その背後には会津藩の伝統的しがらみである将軍家への強い思いがあったはずだ。   「新撰組」あるいわ「浪士組」とも呼ばれたこれら男たちは、いわば集団剣客だが、映画や小説のなかではめっぽう強いことになっている。だが、鳥羽伏見の戦いでは、圧倒的に多兵であったにもかかわらず幕府方が薩長の軍に敗れる。それを見た「最後の将軍」である慶喜はひとりで江戸へ逃げ帰る。京に残された新撰組は危うき目にあう。   近藤たちの役目は終わったわけである。一行は江戸へ戻ることになるが、その先頭を行く近藤はその際、多摩地区の街道に沿ったふるさとの地を通っている。あっけなかった己の華、それを最後に武蔵野の人びとに見せたかったにちがいない。そして、新撰組の男らは江戸から甲府へ、そこから流山(千葉)へと移動を続けることを余儀なくされる。一説によれば、江戸が戦場となるのを防ごうとした幕臣の勝海舟が彼らを江戸へ入れなかったのだという。近藤が板橋(東京)において処刑されたのは世の中が明治となったその年である。

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日本の歴史を旅する 107 武蔵野 2

田中 幸子 武蔵野の発祥は非常に古い。万葉集にはそれを詠った句がいくつかあるが、『続日本記』によれば、高麗(高句麗)、新羅や百済などから来た朝鮮の帰化人によって開拓されたのがその始めであるという。最近になって本で読んで知ったことだが、7世紀後半の日本の朝廷は彼らを歓迎し、武蔵野を中心に関東一円に定住させたのだという。「高麗郡」が置かれたと記されているそうだが、自国が滅亡したときに移住してきた朝鮮の人たちであり、1800人もいたという。武蔵野から遠くない地にあったという「高句麗神社(寺)」とか「百済寺」は、今でも健在だそうだ。今の東京からは「武蔵野」はなくなったと言う人がいるが、東京の西のはずれにあるわが母校の周辺には、それがほんの少しだが残っていた。 江戸時代からある玉川上水も健在だった。江戸の住民に飲料水を供給するために1653年に造られたものだが、多摩川から引いた流れを武蔵野台地の東方へと導き、井の頭公園を横切って四谷までもっていった。そこから水は地下にもぐり、江戸の町の各方面へ流れた。たいへんな事業だった。 わたしの年代の人間が玉川上水を記憶にとどめるのは、昭和時代の初めに起きたスキャンダルが理由のひとつだろう。時代の寵児だった作家の太宰治が愛人と自殺を試みるという事件で、上水が三鷹を通る辺りだったという。 武蔵野はまた、国木田独歩の短編小説『武蔵野』の舞台でもある。ツルゲーネフの影響を受けた独歩は、まだゆたかな自然の残る武蔵野にしばらく住んだのだが、そこをスケッチ風に描いた。自由恋愛を実行して物議をかもした女性、佐々城信子(有島武雄著の『ある女』のモデル)と独歩が散策し愛を誓ったのも、武蔵野である(『欺かざるの記』)。その頃は渋谷村と呼ばれた丘であったが、今の渋谷のど真んなか、NHKのあるあたりだという。若者の街渋谷の煩雑ぶりからは昔の静かな丘や畑は想像さえできない。 独歩と同時代の人、徳富蘆花はトルストイを大いに尊敬したが、かれも武蔵野の地に農家を購入して田園生活を始めた。ロシアまで出かけてトルストイの農園を訪ねているが、真似をしたというわけだ。蘆花が妻と住んだ家の「恒春園」は現存するが、今は都立公園の中に移されている。京王線沿線にあるその公園は、今でも多少武蔵野を彷彿させる。 深大寺の周辺にも武蔵野の面影が残っている。中央線の三鷹駅と京王線の調布の間にあるこの天台宗の開山は859年。江戸時代に火事で焼け、今の建物は大正年間のものだという。その広大な境内には今も木が多く、すこし奥へはいると「うっそう」と形容してもいいほどで、隣接して都立の神代植物公園がある。また、小規模だが門前町のような並びがあり、そのあたりは観光客が少なくない。わたしが行ったときも観光バスが何台か止まっていた。 深大寺のあたりは昔からいい湧き水に恵まれていたという。それで寺の前にはそば屋があるのだろうが、その数は何年か前に訪れたときより増えている。ここは昔からうまいそばが食べられることで知られているのだが、今度食べてみてのわたしの感想は、はかばかしくなかった。しかし深大寺と植物園は、東京郊外の散策の場所としてはもってこいである。半日を野外で過ごし、今に残る武蔵野を楽しむことをお勧めしたい。

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日本の歴史を旅する 106 武蔵野 1

田中 幸子 水戸から帰って2日後、近場ということでこんどは東京の西の外れまで行くことにした。東京駅から西に向ってまっすぐ走る中央線に乗るが、新宿を過ぎてしばらくすると国分寺という駅がある。急行なら1時間ほどだ。この駅からバスに乗ると4年間通った津田塾大学のキャンパスがある。自宅のあった横浜のはずれから2時間以上かかって通学したのだが、今思うと信じがたい。卒業後に一度だけ訪れたことのあるが、それから30年あまりの月日がたっている。あの辺りは武蔵野のはずれだが、その後どうなっただろう。まずそこを自分の目で確かめようと思った。   世界有数の大都市東京は、歴史的にみると西へ西へと広がっていった。郊外がいくつもでき、そこに住む人たちのために私鉄の線が何本か敷かれた。それらの線の発終着駅が新宿や渋谷だが、内は今は通勤通学者を含む乗り換えの乗客たちで大混雑をきわめている。駅構内だけでなくその周辺はいつ行っても人の波で、慣れない人にはその人波に飲み込まれる恐怖を感じるのではないか。旅なれたわたしも、だから、郊外へ足を運ぶのを避けてきた。今回は例外である。   通学していたときは国分寺駅前からバスに乗ったものだが、西武線という小さな私鉄電車も走っていた(今も走っている)。新宿などで遊んでいて最終のバスを逃した寮生はこの電車に頼ったものだが、武蔵野と呼ばれる一帯はその頃は雑木林と畑で、そのなかの細い一本道を10分ほど歩かなければならなかった。玉川上水に沿ったそのあたりには灯りはまったくなかった。   今回バスでなく西武線を選んだのは、上水に沿った道は今もあるだろうか、その辺り一帯はどうなったか、武蔵野の面影はまだ残っているだろうか、それをまず知りたかったからだ。   結論から先にいうと、上水にはきれいな水が流れていた。水道水なのだからあたりまえかもしれないが、それを挟んだ小道も前と同じように多くの木々に囲まれていた。片方の道路に沿って以前はなかった住宅がいくつか並んでいたが、それが気にならないほど緑は豊かであたりは静かだった。もうひとつの側には昔はなかった小公園さえある。ほっとして、こんな場所を散歩できる近辺の人は幸せだとも思った。昔は駅舎以外に何もなかった駅まえにはスーパーや喫茶店などができていたが、その風情も悪くない。   上水をはさんだその小道を行くとバスの走る国道につきあたるのだが、それを渡ったところに校門があるが、「津田塾大学」とたて書きの昔のままの看板が掛かっており、記憶にあるものとまったく同じだった。その看板を見てある事件のことを思い出した。塾の歴史の一片としてどこかで読んだもので、わたしの時代よりずっと前のことである。   先の大戦も終わりに近い頃のこと、教室が工場になり、学生たちは授業ならぬ軍需品の作製をしていたある日、この看板が軍の手で撤去されようとしたという。これに教授と学生たちは反対、正面から議論して譲らなかった。けっきょく軍は看板の撤去をとりやめたというが、同年代の男たちが戦場へと去っていなくなったあとを護っていたその頃の女性は強かったのだろう。   校門の向い側にある小さな林があったが、それが亡くなっていないのもうれしかった。国道は今は自動車で混雑し、店舗やどぎつい色の広告で覆われているらしいから、これは奇跡的といえるのではないか。キャンパスのなかも、あまり変わっていない。学生食堂の建物が加わり、大学院が新設されてからしゃれたダイニングホールもできたが、桜の木が数本植わった小道とその横の小さな運動場は、記憶のなかのものとまったく同じである。学生食堂でお昼を食べたのだが、まわりの学生がみなとても若く見えた。自分の昔の姿を思い浮かべようとするが、うまく行かない。自分が年寄りになっているという事実も、あまりぴんと来ない。  

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日本の歴史を旅する 105 水戸 8

偕楽園は駅前から出るバスで20分ほどの繁華街をぬけたあたりにある。バス停からしばらく歩くが周囲は静かな住宅地である。弘道館を建てた斉彬が造った大きな庭で、梅の木がずいぶんたくさん植えられている。種類も数百あるという。観光の人はそれを見に行くわけだが、わたしには広いだけでまるで趣きのない庭に見えた。   花の季節に来たのではないから仕方がない、と苦情を飲みこんで園内をしばらく歩いた。どこかに茶室もあるらしいが、広すぎる庭は手入れがいき届いているとは思えない。光圀もそうだが、斉彬は梅を好んだことになっている。ふたりが目指したのは花や造園ではなくその実だったのではないか、と勘ぐりたくなる。   広すぎて庭全体の姿が頭に入らないこともあるが、本数が多いだけで、植え方に工夫や趣向は少なくともわたしには見てとれない。斉彬公は風流を解する人物ではなかったのだろう、と水戸の人にしかられそうな結論に至った。わたし以外のその日の観園者は東南アジアからの留学生らしき一行だけのようだった。   あとて調べて知ったことだが、水戸藩の兵隊は(幕末の頃だが)うめぼしの入った弁当を持たされたという。それが日の丸弁当の始まりか、などと思ったが、たしかに梅干は保存が効くし解毒作用もある。大変良いアイデアといえる。ではやっぱり、思ったように偕楽園の梅の木は実用を考えて植えられたにちがいない。風流を解さずとも為政者としては立派である。   水戸駅へ戻るが午後もまだ早い。駅前一帯は地方都市によくあるような面白みに欠ける顔をしているし、見るもはこれといってない。仕方がないから映画館へ入った。映画『桜田門外の変』ロケ地、と大書きされたポスターを見かけたからだが、それがちょうど駅前の劇場にかかっていた。封切られて間もないらしい。でも平日の昼だから観客はわたしと老人のカップルだけ。   映画は史実を忠実にたどっているようだった。自分に反対する者をすべて退け、厳罰に処した大老伊井直弼の独裁者的やり方には、たしかに問題があった。下田で痺れを切らして待つハリス米国領事の開国要求にやむなく結んだ修好条約だったという解釈もできる。そして伊井大老の圧力をもって幕府の権威はしばらくのあいだは保たれる。しかし時代は大きく動こうとしていた。   桜田門外の変は1860年3月3日の出来事だったが、すべては数分で終わったという。見物人をよそおった暗殺者たちは大老のかごが出てくるのを待ち、仲間のひとりの発砲の合図でかごへ斬り込んだ。その日は朝から雪で、登城に向かう伊井の護衛たちは刀に袋をかけていた。それで反撃が一瞬遅れたのだという。なかには神官も2人ほどいたというが、伊井の首をあげたのは水戸藩17名に加わったと薩摩藩士だったというのは皮肉である。   桜田門の暗殺者たちの何人かはその場で死ぬ。逃亡した者もあるがやがて捕らえられ、刑死する。映画はそこまで描いているが、主人公の男の逃亡を助けた一郷士と男に心をよせる女性が出てくる。後者は、滝本いのという元吉原の芸妓で、ひどい拷問にも口をわらなかったということになっている。ちなみに、逃げ切った男がひとりいて、彼は明治の時代を生きたという。   西欧の国と交わることを約した伊井大老への不満が桜田門外の変を引き起こしたのだが、水戸学派の中心である「尊王」の思想は西欧を「夷」とし排除しようとする。今になってみれば理解に苦しむ感情だが、これが長く国を閉ざしてきた結果なのだろう。西欧人への病的なほどの嫌悪はときの天皇(孝明)のものでもあったという。ちなみに、水戸の藩士は東禅寺(東京)に置かれた英国領事館も狙撃して殺人を犯して いる。   映画『桜田門外の変』は茨城県の観光促進を願う土地の人びとによって企画されたという。撮影は水戸市内で行われ、市民の援助もずいぶんあったとか。この事件をきっかけに、尊皇攘夷を叫ぶ志士たちと幕藩の兵のあいだの壮絶な斬りあい、それがエスカレートして全国レベルでの戦争の季節がはじまるわけだが、水戸の人たちはなぜこの映画を自分たちの手でつくろうと考えたのだろうか。不思議な気がしないでもない。出来は悪くない映画だが、大きな反響があったということは聞いていない。 

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