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私の東京案内 9    月島と佃島 1

October 17, 2016 The North American Post Staff 0

 晴海通りを歩き、築地市場や浜離宮方面へ曲がらずそれをまっすぐ行くと、勝どき橋がある。渡ると月島と佃島がある。墨田川に架かる橋は今はいくつもあるが(江戸時代にはなく、そのため大火の際には川で人が多く溺れ死んだとか)、この勝どき橋が最南端の最後の橋である。大正15年に竣工したときは開閉式でずいぶん話題になったという。子供の頃、この橋を遠くから見に行った記憶がある。昭和45年に今のようなただの石の橋になった。  月島は埋立地、明治になってからできた地である。その後、東京都の人工島はさらに増え続けたが、そのひとつに朝潮運河をへだてた場所の「晴海」がある。そこは遠方まで行く客船のターミナルがあるだけであまり活用されていないが、2020年予定の東京オリンピック時にここに選手村ができるとか。どんな所かと興味をもって行ってみたが、海際には鉄網がめぐらされていて何もない。ここに来るのは船に乗る人だけなのだろう。  月島はそうではない。銀座や新橋が近いので、通勤には歩きでも、急ぎならスクーターでも充分。銀座には住宅地やアパートはまずなく、あったとしても家賃がばか高い。住宅地でも商業地でもある月島には、銀座と違って、人びとの24時間の生活がある。月島の隅田川よりには高層のマンション(コンド)が並んでいるが、「ウオーターフロント住まい」と謳い、一時さかんに宣伝されていた。月島の北端に位置する面積のごく少ない佃島も同様で、先端を遠くから臨むと長い鉛筆が立ち並んでいる感がある。  月島の商店街には「もんじゃ焼き」の店がいくつもある。その地の名物ということで、遠方から足を運ぶ客も少なくないとか。小麦粉の生地にえびや烏賊、それに野菜を刻んで入れて鉄板で焼きソースをかけて食べるが、客がそれぞれのテーブルで自分で作るところがみそのようだ。材料も何も手軽なわりにお値段が張るのはどういうわけかとわたしは思うし、それが月島とどう関係するのかはわからない。しかし、月島はもんじゃ焼き、と東京の人は思うらしい。  この人工島の真ん中を走る大通りをひとつ脇に入ると、そこに建っている家は木造が多い。そして路地もある。ここには米軍は焼夷弾を落とさなかったからだが、昭和期に建った家がすきまなく細い道をはさんで並んでいる。人がやっとすれ違えるほどの幅の道があり、それに向けて玄関が並んでいる。家と家は壁ひとつで隔たれているだけであり、玄関前に置かれた鉢植えの間を猫がのんびり歩いてたりする。  東京にはあまり見られなくなったこの「長屋」という住居形式が月島には今も存在する。月島は工場や市場などで働く下町の人びとの住居のあった所だが、今も庶民の住む街という感がある。戦前の東京にはこういう「長屋」はあちこちにあったし、今も墨東の下町地区には多少残っている。隣人が誰であるかも知らない今の高層マンションの暮らしとは対照的な環境だが、こういう長屋の住民たちは毎日隣人と顔をあわせ、庭がないから子供たちは道端で遊んだものだ。良くも悪くも人との付き合いが濃厚になる。こんな住み方を大都会の日本人がしなくなってから久しい。日本橋人形町を歩くのに似て、月島の中心部には失われた時と生活が息づいているようだし、もんじゃ焼きは、まだ海外進出をはたしていないようだ(と思う)から、それを試食かたがた長屋の路地を歩いてみるのも面白いだろう。    (田中 幸子)

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シアトル石垣プロジェクト 5

September 30, 2016 The North American Post Staff 0

参加者の大半は石工ではなかった。  最年少の少年はセス、という14歳の男の子だった。僕の知人の富豪の孫で、どうしても、と頼まれて参加させた。彼は、やはりお坊ちゃんだったが驚くほど礼儀正しかった。毎日、終わりには僕や純徳社長を探し出して挨拶してから帰っていくのであった。やはり重労働、手作業、石、等々彼にとって初めての事ばかりだった。しかし、このワークショップに集まった人たちは皆セスを弟か子のように扱ってくれた。鑿とハンマーの持ち方から、飛び矢を使って石を割る方法まで、誰かが、手取り足取り教えてあげていた。セスもとても素直な子だったから、教える方も教えやすかったのもあったと思う。僕も、セスとはワークショップ内外で何回もやり取りがあったが、何故か少し寂しい感じの子だった印象がある。  セスは、スーパー石工のカイルの姿に憧れたようで、カイルの真似をし始めた。なんとなく微笑ましかった。カイルは手首に革製のかっこいいリストガードをつけているのだが、セスもワークショップが始まった数日後にはそっくりのを持ってきた。お爺さんに頼んで作ってもらったそうだった。カイルのリストガードは「二つ目の皮膚」とでも言いたくなるほどの形と色になっていたのに対して、セスのはまだ真新しい色で硬そうだったが、それを大切に大切にしていた。 ◇ ◇ ◇  ロリンとデリックの本業は庭師だった。だから少し石に慣れていたが、やはり叩いた事はあまりなかった。ロリンとデリックは石の形作りに魅せられてしまった。  デリックはなかなか頑固な人で(石に向いている性格といえる)どうしても自分の持ってきた道具を使って石を叩くんだ、と聞かなかった。彼の道具はあまり手入れをしていないのがはっきり分かった。鑿の先など丸くなっていて、見るからに疲れそうな道具だった。だから、とても苦労して余分な労力を使って汗だくになっていた。しかし、ワークショップが始まって数日して、周りの人たちの使っている道具を観察することができたからだろうか、僕が貸し出していた道具使っていいか、と尋ねてきた。  もちろん!ハツリ鑿(ポイント)とコケヤス(ハンド・セット)とハンマーを貸してあげた。ワークショップが終わるまでそれらの道具が貸しっぱなしになっていたところを見ると、役に立ったみたいだった。(終わったら今度はこの道具売ってくれ!ときた。)  ロリンは鑿とハンマーで石を叩いて積むのが面白くなってしまって、ワークショップが終わったら庭より石をやり始めた。ワークショップの後に彼が積んだ壁を見せてもらったが、単なる壁、というよりもなんとなく芸術作品を思わせる、とんでもなく手の込んだバッチリした壁だった。果たしてこんな事で(あんなに手間と時間をかけていたら)商売になるのかな?と思ったが、何にしてもとても楽しんで作ったというのははっきり感じられた。見ていてうれしくなってしまう壁だった。確かにああいう壁が積めたら幸せになってしまうだろう。  ロリンは、「最初の一週間位は朝起きると左手(鑿を持つ方)が鑿を握ったままの形で固まっていて、右手で指を一本一本伸ばさなければならなかった。はははは」と言っていた。しかし、田部さんやカリフォルニアのスーパー石工達をよく観察すると、彼等はハンマーが鑿を叩く瞬間、ほんの刹那だが左手の握りを緩めているのが分かった。(もっと観察するとハンマーの握りも瞬時ゆるくなる。) 僕も、ロリンほどじゃなかったが特に始めのうち左手の指、特に人差し指と中指がパンパンに腫れ上がって、痛かった。しかし、僕も達人たちを観察して左手は本当に鑿の方向を決めて、そこに軽く抑えておくために使うんだという事が分かった(僕も彫刻で石を叩く事はあるから、一応そのことは知っているつもりだったが、あんなに力任せに朝から晩まで石を叩いた事などなかった。ちなみにアメリカの石工は石彫家のことを「趣味の石工」と呼ぶ)。   (続く) (児嶋 健太郎)

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シアトル石垣プロジェクト 1

September 14, 2016 The North American Post Staff 0

「カイル、お前酔っ払ってるから運転しちゃダメ」  カイルは文句ありげに顔を上げると、「エェー…オォーー…だってブツブツブツ(文句を言っている)。じゃあ、トラック行ってくる」と言った。  「運転しちゃダメだよ」  「帰ってくるって」  そう言うと、彼は重そうなブーツをドカドカと鳴らしながらフラフラと家を出て自分のトラックの方に行ってしまった。  しばらくして帰ってくると、手に大きな鉄のランチボックスのようなものを持ってきた。それを家の裏庭のデッキのテーブルにドンと置いた。  不思議に思い、 「何これ、カイル?」と聞くと、 「強いやつ淹れるんだ」と、フラフラとバーナーだのカップだのを取り出し始めた。  見ているといい香りがしてきて、彼はささっと手際よくエスプレッソを何杯も淹れ始めた。明日も作業がある、夜中の12時過ぎである。僕の周りにいた石工たちも、「おお、ありがたい」とか言って集まってきてエスプレッソの小さなカップを持つと、美味しそうに一気飲みするのである。  カイルも二杯くらい飲むと幸せそうな表情になるのだった。  思わず、「あんたらやっぱどっかおかしいよ」と感心してしまった。  「じゃあ、がんばってください。僕は寝ます。おやすみ」――。僕は呆れたまま寝室に引っ込んだ。  夜中の3時頃にマットが目を覚ますと、カイルは庭の芝生の真ん中でタオルを巻いて寝ていたという。「しょーがねーなー、おら、カイル、部屋に入れ。ほら」といってカイルを室内に連れてくるのに成功したが、1時間もしないうちにまた外に寝に行ってしまったそうである。  野生人というより、野生動物に近い感じがした。(後で聞くと、カイルは他の野郎達のいびきがうるさかったから、と結構繊細なことを言うのであった) ◇ ◇ ◇  粟田建設の会長と社長に出会ってから4年。やっとのことで、シアトルで石垣を建設する段取りが整った。  社長達に出会ったのは、ベンチュラというロサンゼルスから一時間半くらい南にある海岸沿いの町だった。2010年春、そこで小さな石垣を建てようというワークショップがあり、僕はそれに参加していた。  ところがこのワークショップのオーガナイザーの爺様がとても頼りのない人で、日本勢を招くだけ招いて自分はさっさと傍観を決め込んだのだった。だから、通訳も、ガイドも、運転手も、オーガナイザーも誰もいなくても、そんなのどこ吹く風で、「ああ、それは大変だ」とまったく他人事かのように構えているのであった。だから、日本語が話せる僕がなんとなくそうしたこと全てをやることになってしまったのである。  しかし、僕にとってはかけがえのない経験になった。社長たちの日本語による説明を訳して、色々お話しているうちに、この人たちはすごい人たちだ、ということが分かった。粟田家二代前の粟田万喜三と先代(十四代目)の粟田純司はともに人間国宝である、只者ではない家系なのであった。  石垣の作業を手伝っているとき、「これはシアトルでやらないと」、と思いついて、シアトルに帰ってきた後もずっとそのことを考えていた。  さて、どこか石垣を建てさせてくれるような所はないだろうか? 資金はどうする? ワークショップの形は? 人数は? 問題はいろいろあった。  唯一問題でなかったのは、石だった。それは、単純に僕が石屋で働いているからであった。後は、とにかく当たってみないことにはどうにもならない。とりあえず、片っ端からあたってみることにした。  日系企業はよさそうに見えてなかなか難しかった。というのも、例えば一つの会社の敷地内に石垣を建ててしまったら、完成した後にそれが私物になってしまって、僕のやろうとしていることの精神と食い違ってしまうことになる。それと、もし、資金源が一つとか二つとか少なかったら、なんとなくそのお金を用意してくれた人、又は組織なり団体なりに依存する形になってしまうのでこれも又困る。  そんな訳で2010年の冬には、とうとう行き詰ってしまったのである。 […]

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デンショ―20年

September 14, 2016 The North American Post Staff 0

 第二次世界大戦中における日系人収容所政策の歴史を中心に日系史デジタル保存プロジェクトを続ける地元非営利団体のデンショー。9月24日に発足20周年となる夕食会を開く。  発足当時、一世はすでに世にほとんどなく、二世も高齢となっていた。一般社会で三世の活躍も多く見られ、特に当地ではマイクロソフト社などIT業界の最前線に携わる日系関係者も多かった。  当時、他にはないデジタル保存事業はそうした三世たちの技術とシアトルならではで培われた創造性、リーダーシップの引継ぎ、歴史保存の大切さを理解する二世の理解と協力が大きい。  「歴史は繰り返す」ように人種、宗教に絡んだ問題は起き続けている。多様化を続ける今はさらに複雑化している部分もある。  だが日系人に起きた出来事、心の傷、語られていないストーリー、経験は今の時代にも必ず生きると関係者は信じている。トム・イケダ事務局長がオンラインメディアに寄稿した記事は、先週本紙英語面でも転載された。第二次世界大戦で叔父が戦死、市民権を与えられず、「日本人」だった祖父と祖母が受け取った米国国旗。民主党大会で登壇、息子をイラク戦争で失った米国人イスラム教徒のキズル・カーンのスピーチに思いを巡らせた。 8月。日本では「終戦」という言葉が数多く聞かれることになる。戦争の歴史が続く「米国」にとって「終戦」とは。またキング郡政府が讃えた韓国系社会にとっては、建国の月であり、日本の植民地政策からの「解放」の月でもある。  日系人にとっては、当地であればピュアラップの集合所からアイダホ州ミネドカの収容所への移動月となる。「いつシアトルへ戻れるのか」、「これからどうなるのか」、先の見えない3年あまりの生活の最中。  そして混沌の「終戦」後。フリージャーナリストの川井龍介氏が寄稿する小説「ノーノー・ボーイ」の考察記事でも、当時一世の移民感情、二世の思い、それぞれが描写されている。 「移民者」として、また「Expat」として、いつの時代も、あらゆる側面から考えなければらない。   (佐々木 志峰)

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20年に一度の神宮式年遷宮

                伊勢神宮 初めての神宮参拝は、風雨の厳しさも加わって濡れた木々たちの中で神々を感じるほど神秘的だった。去年10月に行われた神宮式年遷宮後の伊勢神宮を訪ねてみたが、今でも世界中から観光客、参拝者が衰えることなく訪れている。式年遷宮とは20年に1度、社殿を建て替え、祭神が引越し(遷御)する一連のお祭り。今回の三重訪問をコーディネートしてくれた伊藤工機株式会社の伊藤台蔵社長に分かりやすく説明をしてもらった。 伊勢神宮とは内宮と外宮を中心に合計125の宮社で成り立っている。1/4は森林で覆われ、宮域全体に風、川、山の神をはじめ、自然の中にある800万の神々を感じてきた日本人の心の故郷といえる。 皇學館大學非常勤務講師で文筆家の千種清美さんは、「神宮は自分と向き合う場所」という。まず入り口で一度深くお辞儀をして「入らせていただきます」とお参りする。通常の観光客は、特別に設置されている禊で手を洗い口をすすぎ身を清めてから正宮に向かうが、地元の参拝者は五十鈴川の清流で手を洗い口をすすいで心身を清める。 正宮に向かって森の中に入っていくと、言葉では表せない聖地ならではの特別な空気を感じる。できたての新殿の桧の香りも神秘さを感じさせると同時に、心のふるさとに帰ってきたような懐かしい感じもしてくる。 社殿を20年に一度新しく建て替えるのは2つの理由があるという。1つは建物が古くなり寿命を迎えたので新しく建て替えないといけない。2つ目は建て替えることにより、ものづくりを次の世代に伝えていくということ。世の中便利になったが、昔からのものづくりを決して忘れないため、また古人の感動を共有する、先祖への感謝の意味がこもっている。 社殿として役目を終えた古材も全国各地に送られ無駄なくリサイクルされる。世の中に無駄なものは何一つなく、すべてに神が宿っているという神道の教えを改めて体験できた。 参拝の際はまず賽銭を入れ、手を2度たたき、できる限り心を無の状態にし、今まで見守ってくれていた神々にただただ感謝する。お願いしたいことは山ほどあってもこの場では感謝するのみ。頼みごとでなく、感謝するために参拝するのは、簡単なようで実は難しかったのは自分だけなのだろうか? (記事・写真 = 高橋 江利)

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JSSNが発信する福祉、医療情報 第47回シアトルのホームヘルスケア前編 医療専門家チームでの在宅サービス

アメリカにあるさまざまな医療サービスの中に、医療保険で在宅サービスを受けることができるホームヘルスケアというものがあります。今回はキング郡のホームヘルスケアの仕組みについて、メディカルソーシャルワーカーとして勤務する上田大二郎さんにお話を伺いました。 60日以内のサービスについて ホームヘルスケアとは、看護師、理学療法士(PT)、作業療法士(OT)、言語療法士(ST)、ソーシャルワーカー、バスエイドと様々な職業チームからなる医療在宅サービスです。メディケアをはじめ、ほとんどの医療保険にこのサービスは含まれています。医師が疾患治療に必要であると判断し、その患者さんが疾患により滞在先から外出することが非常に困難な場合、また相当な努力を要する場合という条件が前提になります。 メディケアや多数の医療保険ではこのホームヘルスケアは100%費用がカバーされています。Copaymentがゼロということです。 患者さんの種類は疾患の種類も含め様々ですが、大きく分けると整形外科系の手術後の在宅リハビリ、うっ血性心不全や肺炎などの理由で短期間入院して体力がきわめて低下した場合、癌治療で化学療法や放射線治療で体力が低下している場合、長期間の施設での療養により床擦れがある、または外傷があり自宅療法を選択した場合、また新たな慢性疾患などで食生活から投薬治療の管理を医師が看護師の家庭でのトレーニング・モニタリングを必要だと判断した場合など様々です。 このサービスは基本的にはメディケアでも医療保険でも通常60日という限られた期間になります。60日以内であっても、患者さんが外来治療に参加できるように回復した場合、頻繁に外出できるようになった(している)場合、リハビリ治療をしても今後回復の見込みがない場合はこのサービスをメディケアを含む医療保険のほうで打切るという場合もあります。 注意してほしいのは、このサービスはホームケアエイドのような、日常のアクティビティーの補助(ベッドから起上る、服の着替えの手伝い、料理の準備、買い物など)ではありません。ただ、バスエイドによってシャワーを浴びる場合の補助は医師の承諾により期間限定で受けられる場合があります。 医療スタッフの役割 看護師は床擦れ、外傷や手術後の縫合の手当て、新たな投薬治療や慢性疾患への対応の教育、うっ血性心不全の投薬治療での血液レベル検査などです。理学療法士は、入院や施設でのリハビリ期間を経たが依然体力低下の回復のための在宅リハビリや、体力低下に伴い必要な補助器具の購入手配サービスになります。作業療法士は、疾患により体が不自由になった状態で日常生活を送るにあたり患者さんの住居環境に応じてどのように対応するか、またその補助器具の手配を補佐します。また、言語療法士は脳卒中などで言語使用が不自由になったり、認知力のテスト、吞みこむ能力のテストなどを行い、記憶力の低下をどのように補うようにできるかのトレーニングも提供します。 私のソーシャルワーカーの仕事は主に、慢性疾患や在宅リハビリ終了後に新たに患者さんの必要な項目を汲出して、利用可能なサービスの情報、たとえば週に数回有料のホームケアエイド(日常生活の補佐をするヘルパーさん)の情報を提供したり、車の運転や公共交通機関の利用が一時的もしくは恒常的にできなくなった場合の交通機関のサービス情報、体の不自由が深刻になり自宅での生活が難しくなった場合のケア施設のサービスの違い、施設のリストなどを提供します。 また、患者ご本人が不自由になった体に対応するのが精神的に困難を要していたり、家族が患者さんの世話をする必要が増大し体力的にも精神的にも参ってしまっている場合のサポート情報も提供します。 このサービスを利用しているにもかかわらず、病気の悪化や回復がうまくいかず入退院を繰り返している患者さんや末期症状でホームヘルスケアサービスよりもホスピスケアのほうがより患者さんや家族の助けになる場合などは、ケア施設の説明やホスピスケアの説明やそのサービスへの仲介なども行います。 在宅でリハビリ治療を受けるということ よく、このサービスを受ける患者さんからでてくる不満で、色々な職種の人たちが自宅に入替り立代りやってくるというものがあります。実際に1日に複数の職種のメンバーが訪問して在宅リハビリ治療が行われることはよくあります。 実は患者さんが施設でのリハビリではなく在宅のリハビリを選択した時点で、リハビリ目的のためには仕方がないのです。ナーシングホームなどのリハビリ施設では、1日の中で看護師が採血して投薬の血液レベルを確認したり、理学療法士が体力の回復に努める運動、そして作業療法士は日常の必要な作業を体が不自由な中でどのように行うかという治療を行うことが通常であり、在宅リハビリを選択したからといって、治療に必要な作業の項目には変わりがないからです。 このように医師が治療・リハビリが必要と判断し、外出能力が悉く低下しているが自宅での治療を希望する患者さんには非常に便利なサービスです。また、医療機関にも患者さんにもあまり知られていないサービスでもあり、医療保険も確認が必要ですが100%カバーしているところも多いので、退院時、もしくは施設から自宅へ帰るときに自宅でのリハビリ治療を希望する場合は、担当の医師にホームヘルスサービスに興味があったらぜひその旨を医師と相談してみてください。 次回は、60日以降のサービスについて紹介します。 【上田大二郎】 ワシントン州認定ソーシャルワーカーならびに高齢者メンタルヘルススペシャリスト。キング郡プロビデンスホームヘルスのメディカルソーシャルワーカー。

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愛犬

December 18, 2012 The North American Post Staff 0

 全く、こんな時にいきなり思い出したように吠えだし、隣の犬のエサを食わえて帰ろうとするなんて。  えっ? 元から自分のエサだった?……そうだとしても相手かまわず向かって行くだけの実力あるんかい。

montana

寄稿 モンタナの一日

November 20, 2012 The North American Post Staff 0

 8月23日、私はミズーリ川裁判所の傍聴席にいた。目の前で新たに米国市民になる移民たちの宣誓式が行われていた。モンタナ州の人口5万人の小さな町、グレートフォールズに19カ国、24人の新移民が家族や友人に見守られ自由と平等、正義を自らの肌で実感しようとしていた。